御堂筋紹介
大メインストリート御堂筋
御堂筋界隈は元々、小売商店が密集する町でした。 また大阪の道路は明治から昭和の初めまでは、東西の通りがメインで幅も5m程度でした。
しかし大正12年に関一が大阪市長に就任し、「総合大阪都市計画」を発表し様々な整備計画の中に「道路を梅田から難波まで(全長4.5km)通し、道幅も44mにする」、「地下に鉄道を通す」というまことに壮大な計画が発表されてから、大きく変貌を遂げてきています。
工事の着工は「船場の真ん中に飛行場でも作る気か」などの言葉に表れているように、激しい反対運動によって5年程度遅れ、昭和元年に地下鉄の敷設から始まりました。
また、工事が始まると同時に地下鉄網を放射状に広げる「高速度交通機関計画」を発表し、関市長は益々周囲を驚かせます。
そして昭和8年に梅田から心斎橋まで、昭和10年には灘波まで開通しました。
御堂筋の工事の方は着工開始から11年経った、昭和12年に完成しました。
この時に、梅田から大江橋にはプラタナス、長堀通りから灘波まではイチョウが植えられ、現在のイチョウ並木の元になっています。
また御堂筋の周辺のビルは「百尺制度」がとられ、ビルの高さを百尺(31m)に揃え、近代的な都市として調和の取れた町並みを実現しました。(現在は50mに変更になっています)
その後、太平洋戦争を越え、大阪の復興を支えながら、昭和33年には国道になり、昭和45年には交通渋滞緩和の為、南行一方通行になりました。
現在は、大阪が国際文化都市となるべく目指し、御堂筋は経済のメインストリートと共に、アメニティスペースとして、人々の想いのストリートとなるべく、様々な計画が進められています。